海をはるか沖へ出ますと、水は一番美しいヤグルマソウの花びらのように青く、
またこのうえなく澄んでいます。
けれども、その深いことといったら、どんなに長いいかり網でもとどかないほど深くて、
その底から水の面までとどかせるには、
教会の塔をいくつもいくつもつみ重ねなくてはならないでしょう。
人魚たちが住んでいるのは、
そういう海の底なのです。
現代教養文庫「小さい人魚姫−アンデルセンの童話と詩−」山室静・訳より冒頭
「ジュリアン様?」
主の名を呼びながら、扉を開いたソレントは、テラスでうたた寝をしている彼の姿を見つけた。穏やかな風が、彼…ジュリアン・ソロの髪を揺らし、手にしていた冊子のページがはらはらとめくれていく。本を支えていた手の力が抜け、足元に本が落ちたのにも気づかずに、ジュリアンは寝息をたてていた。
ソレントは、落ちた本を拾い上げ、タイトルを目にした。それは英訳版のアンデルセンの童話集で、表紙に絵かれているのは、人魚姫。藍を基調とし、同系色の濃淡のみで描かれた人魚姫が、憂えるように月を眺める意匠だった。
先の水害で被害にあった子供達のために尽力しているジュリアンは、時たま、こうして子供達の宝物を差し出される事がある。そうした場合、多くは気持ちだけ、と辞退していたのだが、何の縁か、この本は受け取ったのだろう。
ジュリアンはかつて、海王ポセイドンの寄代として、地上の覇権を巡り、女神アテナと戦った。しかし、それは、一人の男の野望による早すぎた覚醒であり、アテナの聖闘士と、ポセイドン率いる海闘士との戦いは、聖闘士の勝利によって幕を下ろした。敗北したポセイドンは、再びジュリアンの内で眠りにつき、海王の手によって生じた水害の被災地を、海将軍では唯一人生き残ったソレントと共に、資産家であったソロ家の私財をなげうって援助しているのが、今のジュリアンの使命だった。
海王であった頃の記憶は無いはずだとういうのに。
「やはり、どこかで覚えておられるのだろうか…」
ソレントは独りごちた。
…ジュリアンは、夢を見ていた。それは、幾度となく見る夢で、目が覚めると、いつも忘れてしまう。そのくせ、ひとたび夢を見始めると、確かに、見覚えのある、数回見ている夢だ、という自覚があるのだ。
16歳の誕生日、スニオン岬に見出した明かり。
人魚と名乗った少女。
自分を、「ポセイドン」と呼ぶ少女は、マーメイドのテティス、といった。
連れて行かれた海底神殿で、求婚し、断られた少女と再会し、彼女と自分は、神話の時代より続く敵同士であった事を知った。
再度の求愛と、拒絶。
薄れていく自分の意識と、肥大していく、自分の中にいるもう一人の意識。
そうなると、いっそう記憶はあいまいとなった。
常に薄靄の中に情景があり、思うように体を動かす事さえできなかった。
崩壊していく神殿をぼんやりと眺めながら、死を予感した時、かたわらにいたのはテティスだった。
「我が身に換えても、ジュリアン様をお守りいたします」
決意を秘めた瞳だった。自分といくつもかわらないはずの少女に守られる、という事より、渦巻く海流に、我が身さえ思うに任せない、非力な自分を自覚し、それでも、テティスが、渾身の力を持って、海流を泳ぎきった事を覚えている。
テティスの、二本の足は鰭に変貌していた。海岸へたどり着くと、力なく、数度跳ねて、…そのまま、そこから見えなくなった。
いつも、夢の中で、何度も見た光景。
自分こそ、彼女を守らなくては、と、そう思うのに、命を賭して、自分を守ろうとした人魚の姿を、傷ついた鱗と、引き裂かれた鰭を、ただ見ていることしかできない自分を、何十回と繰り返す。
今度こそ、…と、腕を伸ばすと…。
「…ジュリアン様?」
目の前にいたのはソレントだった。うたた寝をしていた自分に、毛布をかけようとしてくれたらしい、毛布の感触で、ジュリアンは目を醒ました。
夢を、見ていた、という記憶は、確かにあるのに、それがどんな夢だったのか、いつも思い出す事ができない。だが、そうして繰り返し夢に見るたびに、水害で荒れた大地のために、何かしなくてはならない、と、決意を新たにするのが常であった。
「いや、…ありがとう、ソレント、あまり、風が心地よかったのでね」
視線を移すと、サイドテーブルには、先ほどまで眺めていた絵本が置いてあった。それは、ジュリアンが取り落としたものを、ソレントが置いておいた物だった。
月の下で、髪をくしけずる、人魚姫の絵。
それを、ジュリアンはひどく懐かしい思いで見、立ち上がって、海風に身を委ねた。どこか遠くで、かすかに水しぶきの音が…した。
『その時、太陽が海からのぼって、おだやかな暖かい光が、死のように冷たい海の泡を照らしました。小さい人魚姫は、少しも死んだような気がしませんでした。』
(了)
「海に消える雨」